#私の挑戦史

挑戦の成就はいつだってかけがえのない支援者と共に。

渡邊 将史、通称「マサやん」。WEIN隊近畿部隊のリーダーであり、先日行われたWEIN隊のミートアップでは聴衆を引き込む魅力的なスピーチが際立った。底抜けの明るさとコミュニケーション能力の高さが印象的な「マサやん」であるが、そのパーソナリティは一体どのようにして育まれたのか。インタビューで明らかになったのは、彼の明るさの裏側にある、様々な苦難を挑戦することで乗り越えてきた芯の強さと、それを支えた仲間の存在だった。 今回マサやんにインタビューするにあたり、日頃から経営者として、そして中国・四国部隊リーダーとして責任を全うすべく、事前に質問を用意して取材にのぞんだが、蓋を開けてみると「マサやん」の圧倒的な語りによって2時間があっという間に過ぎていった。

2020.08.23
挑戦の成就はいつだってかけがえのない支援者と共に。

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Profile

渡邊将史(わたなべ まさふみ)

出身地:兵庫県
学歴:Mountain Creek State High School
趣味:曲作り、スポーツ全般、料理
特技:音楽制作、料理、ギター
活動:オーストラリア企業 日本人初 新卒営業チームマネージャー
      株式会社TBM
      Apple Japan合同会社
   フリーランス英語翻訳
   音楽活動

今日はよろしくお願いします。8月1日のWEIN隊のミートアップでは、渡邊さんの近畿リーダー就任挨拶がすごく良かったです。コミュニティでも盛り上がっていました。

いやいやそんなことは。笑
ありがとうございます。

WEIN隊にはどのようなきっかけで応募されたんですか?

小学校の時の同級生がWEINに関わっていて、彼から溝口さんに紹介してもらったのがきっかけです。世の中に挑戦を増やすことで「21世紀の課題である『孤独・退屈・不安』を解消する」というビジョンに強く惹かれ応募しました。特に「挑戦」、そして「挑戦の支援」の総量を増やすという理念については強い思い入れがあります。
また、どうせ関わるならより深く関わりたいという想いもあり、近畿部隊のリーダーに立候補しました。将来的には社員という立場からWEINに携わりたいとも考えています。

支援者が一人もいなかった第一の挑戦 – 沖縄に渡る

WEINのビジョン「孤独・退屈・不安という21世紀の課題を解決する」に対する強い想いをひしひしと感じます。それと、「挑戦」や、「挑戦の支援」の総量を増やすことへの並々ならぬ想いは過去の経験に起因するのでしょうか。渡邊さんのこれまでの経験について詳しくお聞きしたいです。

そうですね、どちらも過去の経験から生じた想いだと思います。というのも僕の人生は挑戦と挫折の連続でした。幼少期から話をさせてください。

僕の生まれは兵庫県の芦屋で小中学校も地元の学校に通ったんですが、高校はスポーツ推薦で地元を離れ、沖縄県にある野球の強豪校に進学することにしました。親元を離れ、寮生活をするという挑戦だったんですが、ここでまずショッキングな体験をすることになって…。

おお、ショッキングな体験ですか。

寮生活だったんですが、壮絶なイジメを受けまして。野球部員は沖縄の離島出身のメンバーが多くて、本州から来た僕には方言の内容が理解できず、それがきっかけで誰も口をきいてくれなくなりました。木刀で暴力を振るわれるようなこともあり、命の危険を感じて、ある日寮から脱走してしまったんです。当時はかなり精神的に追い詰められて、結局入学から2ヶ月余りで退学し兵庫に帰ることになりました。

「甲子園に出場する」という目標があったんですが、最初の挑戦は挫折で終わってしまいました。

挫折が巡り合わせた支援者と共に成し遂げた第二の挑戦 – オーストラリアに渡る

それはとても苦しい経験ですね。高校生にとっては学校が自分の居場所としてかなり大きなウェイトを占めるので、本当に辛かったのではないかと思います。

当時は辛かったですね。でも、そのおかげで人生を変える出会いもあって。神戸の高校に編入することになったんですが、すごく熱心な英語の先生に出会いました。

幼少期に英語圏で過ごしたこともあって英語は得意で、全国の共通試験で日本一を取ることもあったんです。神戸の高校には英語の成績上位者がオーストラリアに短期研修を受けに行くことができる制度が設けられていて、僕は参加を断ったんですが、その先生がすごく熱心に僕を誘ってくれました。「渡邊、オーストラリア行ってみたらどうだ」って。僕の母親にも電話をしてくれたりして…。
そこまで言うなら行ってみようと思い、研修に参加しました。

なるほど。その熱心な英語の先生との出会いが人生を変えるきっかけだったというわけですね。実際留学したオーストラリアでの経験はどうでしたか。

日本と全く異なる授業の様子に衝撃を受けました。日本では正解を覚えたり、導き出したりするように授業が設計されていると思うんですが、オーストラリアはとにかく対話を重んじるんですね。答えを与えずに、生徒に対話を通じてとことん考えさせるんです。このスタイルにすごく感動したのを覚えています。オーストラリアで学生時代を過ごせば、自分がなりたい大人の姿に近づけるんじゃないかと思いました。

それで母親にオーストラリアの高校に行かせてもらえないかと頼んだのですが、あっさりと断られてしまいまして 。笑 沖縄の高校を辞めたのに、神戸の高校もまた辞めるのかと。「筋を通しなさい」と言われました。
そこで僕は母親と約束したんです。TOEICのテストで満点をとったらオーストラリアに行かせて欲しいと。それからは、とにかく必死に勉強して、実際に満点をとることができました。

その結果、母親も納得してくれて、サンシャインコーストというブリスベンから車で2時間くらいの田舎町の高校に通うことになりました。日本人はほぼいない環境で、最初は英語が聞き取れないことも多々ありました。

自ら絆を育んだ支援者と共に乗り越えた第三の挑戦 – オーストラリアで生きる

TOEIC満点はとてつもないですね。笑  渡邊さんのコミット力の高さを痛感します。それとお母様のご理解と度胸がすわった姿勢が確実に渡邊さんの挑戦を後押ししているように思われます。
オーストラリア時代について、もう少しお伺いしたいのですが、周りと十分なコミュニケーションが取れない状況は沖縄の時のものに酷似していますが、やはり大変な思いをされたのでしょうか?

お察しの通りです。笑
オーストラリアの田舎は白人が大半を占めていることもあり、初めのうちはアジア人として深刻な人種差別を受けました。この時は「またか」と、とても辛い思いをしました。一人で渡豪したこともあり、周りに話せる人もなかなかいなくて。

けれど、それで日本に帰ってしまうようでは沖縄の高校に進学した時と同じ轍を踏むことになります。だから、オーストラリアでは色々考えて行動しました。例えば、自虐ネタで笑いをとって相手の自分に対する印象を能動的に変えようとしたりしました。相手から受ければイジメであることも、自分からネタにしてしまえばそれは武器にすらなり得ます。また、純粋にオーストラリア独特のイントネーションやスラングを確認・メモして徹底的に勉強することも怠りませんでした。

これらの自発的なアクションによって友人はどんどん増えていき、最終的には校内誌の表紙を飾るくらいの有名な生徒になってしまいました。笑
逃げず、諦めず、挑戦し続けた経験は今の自分を大きく自信づけています。

〜オーストラリアで仲間に囲まれる渡邊さん〜

とても素敵です。沖縄での結末とは違い、オーストラリアでは差別を乗り越え、学校中の人気者にまでなることができたんですね。

そうなんです。ただ、ここからさらなる困難が待ち受けていました。笑
大学受験でクイーンズランド大学という大学に合格したんですが、年間500-600万円の学費がかかるため入学を辞退することになり、そこからは本当に苦労しました。

大学に行かなくなったことで働かざるを得なかったんですが、当時のオーストラリアは不況中の不況で全く職にありつくことができませんでした。何百通も履歴書を書いて送りましたが、断られ続けてしまって。やはりオーストラリアの企業はオーストラリア人の採用を優先するんです。ようやく採用をもらった飲食店でもすぐに首を切られてしまい、当時住んでいた家を出ていかなければならなくなりました。その後、ハウスクリーニングの仕事になんとかありついた時も、訪問先の家庭の子供に馬鹿にされたりと、悔しい思いをしました。所持金が30ドルほどしかない時もあったりして。

そんな時に支えとなったのが、高校時代に築いた親友との絆でした。当時まともにアパートも借りれなかった僕を家に泊めてくれて。彼のご両親もすごく良い人で、まるで息子のように僕に接してくれたんです。そうした温かさに触れることで、この苦境をなんとか乗り越えることができたし、周囲からの心無い言葉や態度に直面した際も「自分はもっと心温かい人になってやる」と言い聞かせることで前向きな気持を保てていたと思います。

一人で海を渡った先の国でゼロから築いた人間関係が渡邊さんを救ったんですね。

はい。親友の名前はロキというんですが、本当に感謝しています。当時のロキや彼のご両親とのやりとりから、何かに挑戦する人にとってはそれを見守ったり、助けたりしてくれる支援者の存在がとても重要であるということを痛感しました。

その後、ロキの家族のサポートの影響もあり、しっかりとした就職先も見つけることができました。その時は直接、スコットランド人の社長に会いに行って直談判したんですが、彼が僕のことを面白がって、面接をしてくれたんです。彼自身がワーキングホリデー制度を利用しての渡豪を経験しており、外国人としてオーストラリアで働くことの厳しさや僕の境遇に対する理解があったのだと思います。

口にこそしていませんが、渡邊さんの雰囲気からロキさんとそのご両親、それから渡邊さんを採用してくれたスコットランド人の社長さんへの感謝の気持ちが漏れ出ているような気がします。笑
人の挑戦に関して、その挑戦をサポートする支援者の重要性を実体験から強く感じたんですね。ところで就職した会社ではどんなことをしていたんでしょうか。

営業職で採用された僕は「FW1」という車の洗浄やハウスクリーニングに用いられる商材の販売を担当しました。

「FW1」の特徴は水を使わずに掃除ができるという点であり、水が枯渇し、かつ車の保有率が高いオーストラリアの環境にはマッチした商材でした。一般のご家庭やカーディーラーなど、toB/toCの隔てなく、とにかく売りまくりましたね。ノルマを達成するごとに職位があがっていくのですが、半年ほどでチームリーダー、チームマネージャーの順に昇格することができました。

チームマネージャーに昇格した段階でマネジメントを担うことになったのですが、多国籍チームのマネージャーを志願しました。

なぜ多国籍のチームマネージャーを志願したんですか?

今までの経験を活かせるかもしれないなと思ったんです。対話することや部下の気持ちを理解し支えてあげようとすることがマネジメントにおいては重要です。

多様性の高いチームになればなるほどその必要性が高まると思いますし、差別やイジメを受けた過去、オーストラリアに来てからの様々な経験がプラスになるのではないかと思いました。そして、実際に過去の自分の経験を活かしたマネジメントをすることができたと思っています。

〜親友 ロキさんとの2ショット〜

自身の心の声を、挑戦の味方に、支援者に – 日本に帰る

ネガティブな経験をポジティブに捉え、自分の強みに変えることができたんですね。そこからの人生は順調だったんですか?

いえ、そう上手くはいかず。笑
仕事は順調だったんですが、自動車事故で酷い骨折をして手術をすることになりました。オーストラリアでの僕の立場は外国人であり、手術費が多くかかります。なので日本に帰国して手術することを選びました。もちろん手術のために日本に戻っている間は働けないので、労働ビザは期限が切れてしまい、その後は日本で就職することを余儀なくされました。

なるほど、波乱万丈の人生ですね。日本での活動は、また振り出しからになったと思うのですが、帰国後、どのような歩みをされてきたんですか。とても興味があります。

初めは就職して、素材系のベンチャー企業で海外広報として活動しました。国内外の環境分野に関するAwardに自社の商品を応募し、GOOD DESIGN賞やCoolJapanアワードなど、かなり多くの賞を受賞することができました。
様々なことを学ばせてもらったので今でも感謝しているのですが、どうしてもやりたいことができて退社しました。

どうしてもやりたいこと?

アーティストのONE OK ROCKが好きでコンサートに行くことがあったんですが、その時にボーカルのTakaが「自分の胸に手を当ててやりたいことをはじめろ」と熱く語っていたんです。それに感化されてしまいまして。「Taka、ありがとう」と。笑

それで自分がやりたいことを純粋に考えてみると、オーストラリアにいた頃、放課後に海で友人と歌を歌っていたことが思い出されたんです。また、これまで歌に救われてきたことが多かったことにも気づきました。僕は人を感動させることが好きで、ONE OK ROCKのように音楽を通じて、言葉を通じて誰かの心に訴えかけたいと思いました。

その後すぐに会社を辞めました。それからバンドを組んで、CDを売って、音楽活動に没頭しました。会社を辞めたら音楽活動に専念できる時間が増えるはずだったんですが、生活のためにはバイトを夜遅くまで入れなくてはならなくて…。会社を辞めた後は辞めた後で大変でしたね。1年間、音楽の世界に身を置いてみましたが、業界の闇の部分を知ったこともあり次のステージに進むことに決めました。

その後は、某企業で社内広報として働いたり、個人事業主として活動したりして、現在に至ります。

誰かにとっての支援者を目指し、絶えず挑戦者でもあり続ける – WEIN隊での挑戦

渡邊さんの「自分に正直にやりたいことに挑む、それも成果を挙げるまで物凄い推進力で取り組む」、そして、渡邊さんの挑戦と共に歩んでくれた「かけがえのない支援者の存在に思いを馳せる」という姿勢が素晴らしいです。そんな渡邊さんがWEIN隊での活動を含め、今後どんなことに取り組んでいきたいかについて教えてください。

まず近畿部隊リーダーとしてですが、近畿地方の盛り上がりを東京と肩を並べるくらいのものにしたいです!今はインターネットも普及して、地方から大きなアクションを起こす人の数も増えています。近畿地方から日本を牽引するリーダーをもっとたくさん発掘できると考えています。
今の近畿部隊のフェーズは企業における「創業期→成長期→安定期→衰退期」でいうところの創業期です。そして、四つのフェーズのうち創業期が最も重要です。僕がリーダーをつとめる半年間で、近畿部隊のしっかりとした基盤を作っていければと思います。

また、今後もっとWEINに関わる機会がでてくれば、僕は「感性が巡る、経済をつくる」を標榜するHARTiの支援をしたいです。今の世の中は生活の糧にならないことが理由で活動を辞めてしまうアーティストが99%という状況ですが、HARTiはその現実を変えようとしています。祖母が手芸家、母はアクセサリーブランドを経営していることもあり家系として小さな頃からアートにはよく触れてきました。また僕自身も楽器を演奏し、一時期音楽で生計をたてることを考えたことがあったので、HARTiが掲げている課題感はとても共感できるんです。
日本における挑戦者の数が少ない大きな理由の一つが、挑戦に対する支援の数が少ないことだと考えています。ですので、HARTiの事業に携わることができれば、彼らの活動を全面的に支援し、最終的にはHARTiのアート領域だけでなく挑戦者全体の数を増やすことに寄与していきたいです。

一つ具体的な活動を例に挙げるとすれば、HARTi所属アーティストの海外広報を担ってみたいです。前職の広報の知識と英語のスキルを活かし、挑戦者としてのアーティストの良き支援者となれればいいなと思ったりしています。これまでの人生において挑戦者を支援・応援することの意義を実感してきているので、誰かの支援者となる機会があれば積極的に担っていきたいです。

そして、WEIN隊で活動しながらも、自分がやりたいこと、挑戦したいことはどんなにハードルが高くても必ず挑んでいきます。自分自身も挑戦者であり続けたいと思います。沖縄への進学や、オーストラリアに行くこと、音楽活動など、周囲からは反対されることもありましたが、自分が好きだと思うことには正直に向き合いリスクをとって実行してきました。その結果、挫折や失敗は沢山ありましたが、その全てが今の自分に繋がっていると感じます。結果としてすごく良かったなと思っていますし、後悔は何一つありません。

リスクというとネガティブな印象がありますが、ラテン語では「挑戦する/扉を開ける」というポジティブな意味です。また失敗することもあるかもしれないですが、人を傷つけない限りにおいては、これからも色々なことに「リスク」をとって挑戦していきたいですね。

 

編集後記

アウシュビッツを生き抜いた精神科医、ヴィクトール・E・フランクルが著した古典「夜と霧」には「人間というものは人生から問われている」という言葉が出てきます。人生から常に人は課題を与えられ、岐路に立っており、どう応答・行動するかは自由意志の問題だ、ということです。

様々な挫折を乗り越えて、今回WEIN隊にジョインすることになった「マサやん」こと渡邊さんですが、苦難や理不尽に向き合い、常に人生からの問いに前向きに真摯に回答されてきたことがインタビューを通して伝わってきました。
そしてその経験が、現在の彼のパーソナリティや、周囲を尊重しつつ自らも挑戦しつづける姿勢に繋がっているのだと思います。
近畿コミュニティリーダーとして渡邊さんの今後の活躍が楽しみです。

WEIN隊 中四国部隊リーダー・ 池永将成